”浪漫”は時に歴史を凌駕する

私たち加茂精工の象徴、アイデンティティと言える”ボール減速機”。

開発秘話を創業者である現会長、今瀬憲司に聞いてみる。

創業者 会長 そして発明家

今瀬憲司


 

設計事務所から脱サラ

 モノづくりが子供のころから好きだった。特にクルクル回るもの。設計事務所を31歳の時に脱サラ。機械設計事務所を開業したが2年で廃業。理由はどうにも馴染めなかった下請けという立場。やはり性に合わなかった。一念発起して機械メーカーを立ち上げる。

 設立時は空圧割出装置の製造販売からスタート。割出機はどちらかと言うとニッチ市場。もっと市場ニーズの高い機械の開発を狙っていた。

第2次ロボットブームに乗れ

 時代は第2次ロボットブーム。第1次は空圧・油圧が動源の中心。1/100の精度を出すのは極めて難しかった。

 サーボモータ、コンピュータ制御を駆使したロボットが実用化され始めた。必然的に高速回転が得意なモータの活用により性能の高い減速機のニーズが高まった。当時の減速機市場は一社独占に近い状態。その他は精度の出ない歯車であった。

 そんな状況下、”唯一無二の減速機を創ろう、造ろう”と立ち上がった。それは3,000年とも言われる平歯車の歴史への挑戦でもあった。

ボールとサイクロイド曲線

 ノンバックラッシ、高効率、低騒音、より滑らかに。

 開発時からボール減速機は今に通ずるコンセプトで開発。誰も考えないような独創的な機構が信条だ。キーになるのはスチールボールとサイクロイド曲線。CADなどないこの時代、ドラフターでコンパス片手に何度も何度も描画した。マシニングは穿孔テープの時代。テープの消費が驚くほど速かった。

格闘

 寝る間、風呂に入る時間も惜しみ没頭した。理想は2段減速機構。これが大きな壁となり立ちはだかることになる。

 頭にあるのは新しい有用なものを世に送り出すこと。エンジニア魂だけが心のよりどころだった。

 ※結局2段減速機構は20年の歳月を要すことになる。

歓喜の試作1号機誕生

 試行錯誤の結果、2段減速機構をどうしても上手く造ることが出来ず試作1号機は1段減速機構と決断した。減速比は1/36。当初は部品がバラバラな状態でのキット販売を予定した。
 そしてついにその日が来る。試作機1号機が完成した。滑らかに、設計通り動く。社員一同、歓喜した。しかしこの試作機は実際に設計通り動くものの理論的に正しいものなのか製品として世に出せるものか?裏付け、検証手段に大いに悩むこととなる。

産学共同での検証

 当時、ロボット工学の権威であった国立大学教授に技術検証のお願いをした。サンプルをもっていらっしゃいと言われ喜び勇んで持って行った。教授は手に取り「これは面白いね」と言った。

 大学は3か月かけ検証し論文を発表した。ボール減速機は正しく動くものとして認定された。

 こうして確かな裏付けの基に製品化は決定した。他に類を見ない独創的な減速機が誕生した。

 反響は大きく数々の賞をいただいた。加茂精工と言えばボール減速機。具現化した技術の結晶を得て本当の意味で会社の基礎を創ることとなったのである。

 今瀬は言う。閃いた時には頭の中ではもう出来上がって動いている。実際に動かないはずは無い。これは技術屋のロマンだ。それを考える時は想像が無限に広がり胸がわくわくドキドキする。
 多くの壁が立ちはだかったがしつこく挑戦すことにより”ロマンは歴史や伝統を超えることがある”。極、稀に。

 苦労話を聞きたかった。しかし今瀬は「苦労話は無い」と言い切る。幼少の時、色々な機械をバラバラにしてその機構を観察し、また組む。青年時代はオートバイに乗ること、整備にも熱中。旧いオートバイを何台もフルレストアするほどの腕前。尋常じゃない苦労があったはず。永遠のメカ好き少年だからこそ苦労と感じないのかも知れない。


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